1942年1月20日正午、ドイツ・ベルリンのヴァンゼー湖畔にある大邸宅にて、ナチス親衛隊と各事務次官が国家保安部長官のラインハルト・ハイドリヒに招かれ、高官15名と秘書1名による会議が開かれた。議題は「ユダヤ人問題の最終的解決」について。「最終的解決」はヨーロッパにおける1,100万ものユダヤ人を計画的に駆除する、つまり抹殺することを意味するコード名。移送、強制収容と労働、計画的殺害など様々な方策を誰一人として異論を唱えることなく議決。その時間は、たったの90分。史上最悪の会議の全貌が80年後のいま、明らかになる。
すべてのドイツ占領下および同盟国から東ヨーロッパの絶滅収容所へのユダヤ人強制送還の始まりとなった「ヴァンゼー会議」。本作は、アドルフ・アイヒマンによって記録された会議の議事録に基づき、80年後の2022年にドイツで製作された。その議事録は、1部のみが残されたホロコーストに関する重要文書だ。出席者15名がまるでビジネスのように、論争の的になるユダヤ人問題について話し合い、大量虐殺に対して反論する者が誰一人いない異様な光景に戦慄が走る。
1952年生まれ。ドイツ・ポツダム出身。俳優のエルヴィン・ゲショネックの息子。
1992年『Möbius(原題)』で映画監督デビュー。父・エルヴィン主演作『Matulla und Busch(原題)』(95)、『Der Mörder und sein Kind』(95)、『Die Mutter』(02)など多くのテレビ映画を手がけ、数々の賞を受賞。2010年『Boxhagener Platz(原題)』で18年ぶりに劇場公開映画の監督作品を発表し、ドイツ映画賞では助演女優賞(メレト・ベッカー)、ドイツ映画批評家賞では作品賞と撮影賞(マルティン・ランガー)にノミネートされた。その後、テレビ映画を中心に制作。本作はヴァンゼー会議から80年後にあたる2022年に制作された。
※順不同・敬称略。
“人種の終焉”を議論する悪夢の112分。ガス室で実行された“民族浄化”のドキュメント映像は誰もが観た事があるはずだ。あの20世紀最悪の虐殺計画(最終解決)は、如何に決定されたのか?
15名の高官と書記が招集された秘密会議。流血も戦闘も遺骸も描かれない。ベルリンの会議室で、我々は戦争の真の狂気を目撃する。
地獄は悪魔が作るのではない。
賢くマメで、タダ飯に弱く、周りをキョロキョロしながら隣の席の上司にはつい相槌を打ってしまい、後悔しても帰り道の酒で忘れるような凡人こそが作るのだ。
この会議は史実です
議事録が残っているのです
今 世界のどこかの国で 或いは どこかの谷間の集落でこのような会議が行われているかも知れません
我々人間はどうしてこのようなことを・・・・・
彼らはいずれも堂々と、なぜ効率的にユダヤ人を抹殺しなければならないのかとリアリティをこめて述べている。
なぜ今この映画を作らねばならなかったのか。監督ほか制作者たちに問いたいことが次から次へと出てくる。
「平和が一番」と語る人々が、ユダヤ人問題の解決と称して「ガス室送り」を決める。
自分とは違う他者を排除した先にあるものとは。現代を生きるわれわれとて、一歩間違えれば同じ過ちを犯しかねないことに気付く。
ヴァンゼー湖畔の白を基調とした邸宅は、ひっそりと清潔だった。会議室に通された。元は食堂だったらしい。平日の昼のせいか、人は誰もいない。靴音だけが響く。その印象を一言にすれば静謐だ。
でもかつてこの邸宅に召集された15人のナチス高官は、「ユダヤ人問題の最終的解決」について議論して、結果として大規模なホロコーストが現実化した。
アーヴィング・ジャニスがその著書である『集団浅慮』で説くように、人は集団で思考すると間違える。周囲に迎合し上の人を忖度し、ありえない結論に辿り着いてしまう。
防ぐ方法はひとつだけ。個を失わないこと。でも群れて生きることを選択した人類は、常に集団に埋没するリスクを内在している。
つまりこれは昔話ではない。現在進行形だ。そう思いながら観てほしい。15人は彼岸の人ではない。
観ない方がいいのかと、観る前に躊躇った。
観た後に、これは観るべき映画だったと確信した。
人類史上最悪の虐殺行為は、美しい湖畔に立つ屋敷で計画された。まるで来年の予算を決めるかのように淡々と進む会議のもと、時には笑いを交えながら、命が数字に置き換えられ処理されていく。禍根の歴史の裏側に迫る、真摯で恐ろしい作品だ。
ユダヤ人絶滅のためベルリンの静かな湖畔に集まった15人のナチス親衛隊と政府高官。いつしか自分も16人目としてその場に居合わせた錯覚に陥る。虐殺の方法は?輸送は?女性と子どもは?ドイツ人との混血は?死体の処理は?…。
1100万人を虐殺するための会議はわずか90分。金縛りにあったように最後までひと言も発せられなかった自分に、ただただ戦慄を覚えるのだった。
会議はいつも一抹の不満と後悔を残して跡形もなく消えさる。テーブルのうえにはレールの転轍点がいくつかあったはずなのだ。たとえ狡猾に計画された結論ありきのテーブルであっても。
現場から遠く離れた密室で言いだせず呑みこんだ意見とともに、死産した別の可能性の亡霊たちがうずたかく積みあがる。そのうえに私たちの歴史は建っている。
血も凍るような残虐きわまりない提言や判断が、なんとも官僚的で静かな会議で繰り出されている。そのギャップに戦慄した。
哲学者ハンナ・アーレントの言った「凡庸な悪」がまさに具現化されたような物語。
この優れた会話劇は、否応なしに観衆をヴァンゼー会議に「出席」させるだろう。失言すればキャリアを失うような会議、この議題が「大量殺戮」だったとしたら、あなたはどのような態度で臨むだろうか。
この会議の先には、個々人の苦しみと絶望と死がある。こう考えたとき、ロシア・ウクライナ戦争などが起きている地球上で生きる私自身もまた、「命が消えゆく瞬間を現場で見ない者」のひとりだと気づかされるのだ。
本作が浮き彫りにするのは「良識vs邪心」ではなく、免罪符が必要か不要かという議論だ。それは伝統的理性と新興の疑似理性システムの戦いであり、後者を司るナチス親衛隊の集合意識とは何だったのか、に印象の比重を置いた点が、同じ舞台を描きながらハイドリヒをキャラ立ちさせた名作『謀議』との大きな違いであり、とても興味深い。
コニャックとサーモンをつまみながら、ドイツ人高官たちは“人道的”で“効率的”なユダヤ人の“最終解決”方法を話し合う。
私たちもまた、この“実務者会議”の出席者になるかもしれないのだ。
出世や保身のために毒まんじゅうを食べる忖度官僚、コスパや生産性を声高に叫ぶ意識高い系経営者、そして映画を倍速で見るあなたにこそ、じっくりと観てほしい。
人間はここまで整然と異常な議論ができ、理知的に恐ろしいことを考える。これも確かに人の真の姿だ。だが、彼らにショックを受ける人道的な愛と正義感を持つ、観客のあなたたちがいる限り、人は報われると信じたい。
この映画では音楽が使われていない。鑑賞者と作品を隔てる"ノイズ"がないため、観る者は知らぬ間に16人目の参加者として、ハイドリヒの手の上で転がされるようにアジェンダを消化していく。人類史上最悪の虐殺計画を前に、もはや誰も躊躇いを見せず、追求しているのは実現可能性と効率だ。発言者のロジックを追っているうちに正誤感覚が徐々に失われ、妙な納得感すら醸成される。我に返り自己嫌悪に陥る頃には、もう取り返しがつかないかもしれない。静寂な地獄絵図である。